1992(平成4)年7月発行のアビリティーズ紙74号で「忘れてはならぬ、もの言わぬ障害者の声」と題しての私見にたいして、会員や読者諸兄からご意見をいただいた。
Aさんは事故で頚椎損傷となり、病院でリハビリを受けたあと身障施設に入所されている方で、次のようなお手紙であった。
「車いす生活に慣れた頃、新しくできた施設に入所しました。1年くらいは、職員も希望に燃えて介護していただきました。しかし1年も過ぎますと、4~5人も退職して、大方の人が変わってしまいました。古い職員は、一部の脳性マヒ患者や生活保護者にたいして、お前たちは税金で面倒を見てやっているのだ、生意気を言うな、という態度にでてくる。そして新しく学校を卒業して介護福祉士などの資格を持ち、希望に燃えて職員が入ってくると、古い職員が資質や専門的技術の向上をきらい、在園者を甘やかすといって新しくやる仕事を嫌がり、いじめを行なうため、若い職員は、1~2年で退職してしまう。そして一部の古い職員の思うとおりにして、入所者が少しでも抵抗すると、我がままだ、面倒みきれないといわれる。我々障害者の声なき声に耳を傾け、『人間性』と『愛情』を持って接してもらいたい」
こうした言い分には、処遇にたずさわる側の事情もいろいろあるので、一方の意見だけでは判断できない。しかし、Aさんのような状況が、施設の中でたしかにあることは否定できない事実である。
主役は「職員」ではない
福祉施設という集団生活の場では、個人の生活や自由が制約される部分があるのはやむを得ないにしても、その制約が大きいか小さいかは、それぞれの施設の運営のあり方による。その異なりようは、主として入所者に対応する組織と人によって決まってくる。お世話する側とお世話していただく側という相対する関係がここに存在する。また施設運営にあたっては、管理運営のルールの大きなアミが上からもかけられてもいる。
愛知県知多郡に身体障害者療護施設「ひかりのさと」がある。東京の自由学園を出た皿井寿子さんが、昭和38年にアパートの一室で、脳性マヒの4才の子を預かったことからはじまった。
昭和40年に重度障害の子供たちのための愛光園が生まれ、次いで52年には「ひかりのさと」が建設された。公立の施設では考えられないような最重度の障害の入所者50名は、「住人さん」と呼ばれる。35人の職員の多くも、施設周辺に住み、家族同様の共同生活をしている。
田畑を耕やし、有機農業を行ない、玄米もつくる。自給自足を基本的な生き方としている。ホールには「共に食いて感謝し、共に働きて感謝し、共に学びて感謝し、共に考えて感謝し、共に楽しみて感謝する」と書かれた大きな書がある。経営者と労働者、職員と利用者という「対立」は一切なくし、共に生きる者として、同じ立場にたって考えあうあり方をめざしてつくられた「共同生活の場」である。福祉施設の理想的とするべきあり方がここにはある。
「お祭り」だけではメインストリームはできない
いま世の中には“障害者〟と“健常者〟、老いたる者と若き者、といった対立関係の考え方が強く存在する。しかし、大切なことは、誰もがあたりまえに対等に街の中で生きていく、という考え方だと思う。
障害者は、今の社会、今の日本の風土では、生きるに厳しい状況がある。国際障害者年とそれ以降の10年は何だったのか。12月9日が障害者の日と定められ、毎年行事が行なわれ、マスコミも時に、特集プログラムを組む。しかし、社会は、障害のある人々をますますはねのけているようにみえる。
アビリティーズは「保障よりも働くチャンス」を求めて、昭和41年以来、運動をつづけてきた。もはや半世紀に近い。
障害者に対する社会の認識もたしかに変わってきた。しかし、世の中の流れ、圧倒的多数の人々の考え等をじっと見てみると、本気で「共に生きる社会」をつくる理念や行動は未だに弱いままだ。政治家も、行政も、企業も、労働組合も、福祉専門家の多くも、である。
やはり、「障害者差別禁止法」を一日も早く実現しなければならない。
(1993年1月 アビリティーズ紙76号より転載)