2000(平成12)年4月に公的介護保険制度が始まり、それまで国、県、市町村と社会福祉法人により行なわれていた高齢者の介護や福祉サービスが、企業や様々な団体にも門戸が開かれ、事業者は一気に増えた。わが国の高齢者人口は急激に増加し、介護のニーズが今後ますます拡大することがマスコミで喧伝されていたこともあって、これまで福祉に無関心だった企業もたくさん参入してきた。
わが社が福祉用具の研究、開発を始めたのが1972(昭和47)年、正式に事業として販売活動を本格化したのが1974(昭和49)年7月15日であった。からだに障害のある人の、生活の不便を補うために日常生活用具を中心に作り始めたのが最初であった。
なかなか利益のでない仕事であったからか同業者は極めて少なかった。それが2000(平成12)年に介護保険が始まり、介護用具12品目について貸出し(レンタル)、また5品目について購入の制度ができた。いずれ最大で一千万人くらいの要介護者のマーケットになるということで、これは儲かると読み、他業種から福祉用具事業にたくさん参入してきた。2006(平成18)年に全国のレンタル事業者数は一万社を超えた。最近は様々な事情から減少気味で七千社程度と聞く。
介護保険のお蔭で、福祉用具がビジネスになる新しい時代となった。介護保険制度にのって福祉用具事業を展開している事業者の殆どは、制度で定められた17種の限定的な品目を主体に営業している。一方、アビリティーズは現在では4、5千品目もの膨大な商品群となっている。介護保険による福祉用具は、主として、車いすに代表される移動機器やベッド、トイレや入浴などの介助に使用する機器のような、家族やヘルパーによる介護を楽にするためのものと、要介護者自身の療養に必要なベッドや、歩行などの移動のための杖といったものである。障害があってもできるだけ自立生活を高める、あるいは支援や補助するものはあまり入っていない。リハビリテーションの発想、真の理念は、介護保険制度全体から欠落しており、福祉用具に関しても同じことが言える。
だが制度全体を否定することは適切ではない。万全なものではないにしても、高齢者介護の支援策として重要であり、貢献している。
さまざまな福祉用具をうまく使うことにより、生活行動に支障をきたしている高齢者、障害者の自立レベルはもっと上がる。アビリティーズのリハビリ機器、福祉用具は、障害があっても他者の介護にできるだけ頼らず、自身の不自由をできるだけカバーして、自立した生活を可能にすることを目標に開発してきた。すなわち「自立生活のための機器」である。個々の事情や障害に合わせて商品開発を行なってきた結果、多くのアイテムへと拡がっていった。
1972(昭和47)年に商品開発を始めた当時、ヨーロッパでは機器の規準化、公的給付がすでに進んでおり、機器の展示や適応を行なうテクノエイドセンター、あるいは同様な機関が北欧、英国などで重要な機能を発揮していた。
アメリカではリハビリテーション医療が発達しており、社会復帰や自立生活の確保のために、電動車いすや、特別な装置の付いた自動車、自助具といわれるADL(Aids for DailyLiving)用具が普及していた。ADL用具については通信販売でも買うことができた。中でも車いす事業は大きなビジネスに発展していた。
日本ではちょうどその頃、労働省(当時)によって障害者の雇用制度が新しい法律として検討されていたときであり、障害のある人たちが雇用、就労の場に出られる、職業に就ける、そのため可能な限り自立した生活行動を実現する必要があった。福祉用具の開発、普及は急がれねばならなかった。
福祉用具に関するノウハウも不十分、また生産設備などのために投下する資本もない我々にとって、できる手っ取り早い方法は、海外の先行メーカーとの提携だった。図書館や各国大使館に足を運び、欧米の業界研究を行ない、これはと思うメーカーに次々に手紙を出した。送られてくるカタログや資料で、商品を学び、それぞれの会社の姿勢を確認した。そして、そのようにして見つけたメーカーを直接訪ねることにした。
提携先選びは慎重に
1973(昭和48)年から3年ほどはアメリカ、カナダを重点的に訪問、視察した。多くのメーカーは欧米のビジネス拡大に追われており、日本に対する関心は小さかった。3年間にあわせて10回ほど、それぞれ一、二週間の旅でアメリカの業界各社のトップと会い、個人的にも親しくなった人たちもできた。日本でのビジネス展開に前向きな会社も出てきた。少しずつ日本向け仕様の商品を調達することができるようになってきた。
1976(昭和51)年頃からはヨーロッパで同じような折衝を開始した。パートナー選びは慎重に行なった。彼らの商慣習は、日本では想像できないくらいドライである。そういう文化に対して、私は経営トップの人柄や考え方を基準にビジネスパートナーを探していった。
商品はいつでもつくることができるし、改良、改善もできる。しかしトップの考えや哲学は変わるものではない。思想や人格により経営哲学が形成される。経営哲学によって商品やビジネスは良くもなり悪しくにもなる。人格や哲学について尊敬できる人であれば信頼して一緒に仕事ができる。そしてお互いの信頼と信用こそ永続的な関係をつくり、真のパートナーシップを発展させることが可能となる。
私も相手方に自分の考え方を常に明確に語ってきた。アビリティーズ運動の哲学や経過、将来の理想や夢など、語った。だから私が親しくなった人たちはアビリティーズ運動のことをよく理解してくれている。一方、哲学の合わない人とは仕事をしないようにしてきた。
視察や商談のため、私の旅は過密なスケジュールだった。一度の旅でヨーロッパからアメリカ、つまり地球を一周したことも何度かある。
ワシントンのホテルをまだ暗い朝5時に出発、飛行機に乗り、朝のうちにオハイオ州クリーブランドのI社を訪ね、商談。午後にはまた飛行機でアリゾナ州ツーソンのV社の工場を訪ね、就業時間内に工場見学と商談を。夕方ディナーに招待され、深夜まで食事をしながら商談を続けた。東海岸のワシントンと西部のツーソンは距離にして4千キロ余り。
東海岸と西海岸の3時間の時差を利用したからこそできたのだが、私は当時まだ30歳そこそこで、若かった故に可能だった。
すばらしい出会い
こうして知りえた人たちとは十年、二十年というつきあいになる。最長は45年にもなる人もいる。アメリカのフレッド・サモンズ氏はそんな長いおつきあいの一人だ。
イリノイ州で三番目に作業療法士になった彼は、リハビリテーション・インスティテュート・オブ・シカゴ(RIC)等の有数のリハビリセンターで、治療にあたりながら、患者さんの自立生活に必要なさまざまな食器や器具を自分でつくり、提供していた。片手で指を使わずボタンを掛けはずしできるボタンエイドはとても好評で、全国の病院から注文がくるようになった。やがて病院勤務をやめ、自らフレッド・サモンズ社をつくり、ADL(日常生活用具)のメールオーダービジネスを開始した。それが成功して世界的に有名な会社に発展した。30年余り前に会社を売ってリタイアした。私より15歳も上だが、兄弟のようなつきあいを今もしている。アビリティーズの事業に共鳴され、25年前に大株主のひとりになってくれた。
また、オランダのリオ・クート氏。美しい小さな街、デルフトのすぐそばでシャワーチェアや手すり等、デザイン、機能ともすばらしい機器を製造しているリニド社の2代目社長だった。エンジニアだった父親のあとを継いだ。そしてオートメーションによる量産システムで全世界に輸出するようになった。
彼とは40年前、ロンドンの展示会で知りあった。それ以来交流を深めた。そればかりではなく、1986(昭和61)年からは東京での国際福祉機器展(HCR)のヨーロッパ・コーディネーターとして、長い間、絶大な協力をしてくれた。30年前、彼もまた会社を売り、他の仕事に転じたが、今なお個人的にやりとりをしている。
例をあげればキリがないが、仕事を越えて個人的にも親しく交流できる何百人もの欧米の友人を得たことは、私の人生にとってもすばらしい、楽しいことである。こうしたたくさんの人たちとの出会いによって、当社のリハビリ、福祉機器のビジネスが少しずつ拡大してきた。
現在アビリティーズが日本の代理店となっている海外メーカーの情報
主力商品のほとんどは、世界的ネットワークで提携する企業と共同開発し、又、社内の商品開発・技術部門で品質の確認、法令との整合性などを精査の上、販売を開始しています。