「保障よりも働くチャンスを」というスローガンを掲げ、株式会社という商業ベースの舞台で、からだに障害をもつ人々の雇用を進めようとする日本アビリティーズ社の試みは、創業以来困難の連続だった。
会社設立前は理想に燃え将来計画は次々に浮かんだが、現実はそんな甘いものではなかった。学生時代に小さな会社の再建を体験したとはいえ、新たに事業を起こすことは、やはり24才の私にとってとてつもない無理があったと、今はつくづく思う。
しかし、障害をもつ人々がただそれだけを理由に、一般企業で採用試験さえも受けられないという差別に屈してはいられなかった。厳しいビジネスの社会でも、やり方によっては同じように働けるし、企業間の競争でも必ず対等に闘えるはずだと信じていた。そのため日本アビリティーズ社を絶対につぶしてはならない、存続によってそれを証明することができると、日夜激しく行動してきた。それは今にいたるまで変わっていない。
会社がなんとか立ちいける、という実感をもつまでには創業後3年を要した。しかし、それもひとつ波がくれば転覆する小舟のような存在であった。
1.労働大臣との劇的な出会い
会社が危機的状況から少しずつ脱却してきた頃、私は本来のアビリティーズ運動の組織体「日本アビリティーズ協会」の活動を再開することにした。
「アビリティーズの集い」には高松宮両殿下がご臨席下さったこともあった。両殿下は会員の人たちと同じテーブルにつき、親しく言葉を交わされた。突然のお願いにも関わらず、演壇でスピーチも下さった。
私は皇室の方々への対応の仕方を全く知らなかった。アビリティーズ活動の再開に協力下さっていた私の大先輩はあとで、「ごあいさつをお願いする時は事前に宮内庁にお願いするのが習わしです。また、お席は高いところで、うしろには金屏風を用意するものです」と、ご注意下さった。そのようなことは何ひとつできなかった私であるが、高松宮様は、自然な雰囲気で参加できたことを喜んで下さったそうだ。
宮様はその後もアビリティーズの活動にご関心をお寄せ下さった。そして当社の増資の際には出資までして下さった。
衆議院の最長老として活躍されていた原健三郎氏が労働大臣に就任された。昭和46年のことである。大臣就任に際して、ある週刊誌に「推薦する3冊の本」にアメリカ・アビリティーズの創業から成功にいたる物語、「敗北を知らぬ人々」を挙げて下さっていた。 私は早速、原大臣に手紙を出した。たくさんの会社から試験さえも拒否された私の体験、そしてアメリカに比べ日本の障害者雇用対策がどれほど遅れているか。私の情熱のほとばしるところを率直に書いた。ぜひ話を聞いていただきたい、と結んだ。
驚いたことに、すぐに秘書官から、「大臣が会いたいと言っておられる。来所されたい。」との電話をいただいた。短時間しかお会いいただけないものと思い、要約して内容の濃い話ができるように準備して訪ねた。私の話を聞きながら、大臣は大臣室に官房長、審議官、障害者雇用担当課長、係長といった人達を次々に呼び集められ、またたく間に大臣を中心とした10人程の会議が始まってしまった。
私は、からだに障害があるという理由だけで企業が雇用しないことを当然と考えている世の中の「常識」の誤り、障害があっても誰もが何かしらの能力をもっていること、多くの障害者は慈善ではなく自立したいという願いをもっていること、年金や補助を受けることより納税者になることを望んでいる、と熱弁を奮った。大臣は、幹部の方々といろいろ意見を交わしておられたが、最後に「障害者雇用対策の見直し」の検討開始を幹部の方々に指示された。
原労働大臣はその後、日米政府会議でワシントンを外遊されたとき、ニューヨークのアビリティーズ社を訪ね、創業者ヘンリー・ビスカルディ氏にもお会い下さった。アメリカでの障害者の社会復帰の事情、そして米国アビリティーズ社の成功を目の当たりにされ、日本における障害者雇用政策についてその方向性をかなり確信されたようだ。
ところで私が原大臣にお目にかかった折、大臣室に集まられた方々は、その後の約2~30年間、労働省の障害者雇用対策の分野で多くの制度改革とその推進のため大いに活躍された。道正邦彦氏、加藤孝氏、若林之矩氏はいずれものちに労働事務次官、雇用促進事業団理事長、日本障害者雇用促進協会会長、のちに内閣官房副長官になられ、日本の障害者雇用対策にたいへん貢献された。
2.障害者雇用促進法の大幅改正
原大臣にお目にかかって4年後の昭和50年10月、国会で障害者雇用促進法の大幅改正がついに成立、翌51年4月施行された。これにより、一般企業は全従業員の1.5%(現在は1.8%)以上の人数の障害者を雇用することが義務づけられた。未達成の場合には企業は納付金を支払うことになった。いずれはペナルティである。障害者雇用のためのさまざまな助成制度も導入された。企業に対する障害者雇用の責任はこれにより明確になった。
日本アビリティーズ協会を創立してちょうど10年後、アビリティーズの活動を通して労働大臣に障害者雇用のあり方を理解していただき、基本的な法・制度の改革がなされたのである。原労働大臣にお目にかかれたことが、のちに大きな成果へと導いた。
昭和41年6月の日本アビリティーズ社の設立記念会のときに、私は皆さんに次のように申し上げた。
「日本アビリティーズ社のように障害者を雇用するための特別な会社が存在するようなことは本来あるべきではありません。どの会社も障害をもっている人をあたり前に雇用する社会のあり方こそ私たちの願いです。誰もが普通に企業で働け、日本アビリティーズ社が解散できるような社会の状況こそ私たちの目的とするところです。」
障害者雇用促進法の大幅改正はアビリティーズ社設立の目的を実現する第一歩を意味するものであった。