小売業に障害者の雇用を

1983(昭和58)年4月29日、宮城県泉市(現仙台市泉区)の上空に、「ブックセンター『スクラム』開店、どうぞよろしく」という大きなアドバルーンが、朝早くからいくつもポッカリと浮かんでいた。日本アビリティーズ社とスーパー大手のジャスコ株式会社(現、イオン)が提携して、3年8ヵ月をかけて準備してきた、わが国初の重度障害者10名が働くモデルストアの開店である。

かねてから、心身に障害のある人たちが主体となって運営するモデル的なストアを是非ともつくりたいと考えていた。というのは、百貨店やスーパー等小売業界は、当時障害者雇用が最も遅れていた業種のひとつであった。また雇用されていても、たいていは電話交換手や事務部門など、目立たない裏方に配置されていた。障害のある人が販売の前線に配置されていなかった。

1981(昭和56)年の国際障害者年のテーマ『完全参加と平等』が示す通り、障害のある人もない人も、共に生活できる社会のあり方が、「正常」であると考えられるようになってきたが、その頃の障害者雇用の状況は違っていた。とくに「販売」等の接客業務では障害のある人たちが配置されることなど考えられていなかった。

それまでもモデルストアの構想をいくつかの百貨店、スーパーの経営者の方々に話したが、誰もそんな話にのってくれることもなく、具体化できずにいた。

当時、海外でも小売業界での重度障害者雇用は進んでいなかった。

ジャスコの協力で具体化

1979(昭和54)年に雇用促進事業団(当時)から委託を受けて、日本アビリティーズ社は一般企業への就職につなぐために、障害者への職業訓練を行なうアビリティーズビジネススクールという事業を行なった。4ヵ月間、集中的に訓練し職業安定所の協力も得て、就職させる新しい就労促進システム実験事業であった。修了生のひとりが当時のジャスコさんに採用されることになった。それがご縁で同年10月、岡田卓也社長(現名誉会長)にお目にかかった。初対面の岡田社長に、モデルストア構想をお話ししたところ、

 「それは大変意義のある話ですね。できることならやりましょう。応援します」と賛意をいただいた。

この「できることなら」という言葉は、私のアイデアが現実に「成り立つ」ことの確認を求められた、と思った。

翌十一月に当時ジャスコ常務であった植田平八氏(のち副社長)を委員長に、ジャスコとアビリティーズの両社によるプロジェクトチームを発足させた。アビリティーズ側の主要メンバーとしては私のほかに、車いすの弁護士として著名で、アビリティーズ運動を共にやっていただいてきた村田稔氏も入り、両社で八名ほどの体制でスタートした。

チームは、ジャスコの大型店等を視察、重度の障害のある人たちが働ける売場はどこか、問題点は何か、といったことを入念に調査してまわった。ジャスコの神奈川・大和店や千葉・稲毛店といった大型店の商品搬入口に真冬の早朝5時頃から立ち、時間の経過とともに、トラックで運ばれてくる商品がどんなものか、詳しく調べた。厚く着込んでも足下からくるしんしんとした寒さになんとか耐えながら、調べていった。

また、日本アビリティーズ協会の会員の人たちにも協力していただき、さまざまな売場で商品を扱う実験を行なった。協力してくれたのは車いすや松葉杖、装具等さまざまな補装具を使用していた人たちだった。こうした売場での作業実験は、その後の計画づくりにとても有効だった。どんな売場でどういう商品なら扱えるか、働くことができるかを明らかにしていった。

プロジェクトチームが動き出して一年後、確信に満ちた結論をまとめた。岡田社長の承認もいただき、両社の共同出資によるアビリティーズジャスコ株式会社を設立することになった。1980(昭和55)年12月のことである。岡田社長にお会いして、1年3ヵ月後であった。

書店組合の猛烈な反対

第一号店開設を仙台に決め、具体的な開設計画に入った。総工費1億8千万円のうち一億円については、日本障害者雇用促進協会(当時)による助成が決定した。しかしこの助成を受けるためには、地元業界から私たちの店の開設について、同意書を得ることが条件となっていた。

当時の泉市商工会で説明会を開いたところ、地元書店組合から猛烈な反対を喰らうことになった。

書店組合との話し合いは1982(昭和57)年の早春から始まった。皆さんは我々に、次々と厳しい言葉を投げかけた。

「障害者が店をやるなんてできるわけがない。じきにつぶれて、そのあとジャスコが出てくるのだろう。ジャスコの身代わり出店に違いない」

 「我々がやったって本屋は大変なんだ。障害者にやれるわけがない。」

「障害者は福祉手当や障害年金を貰ってるだろう。我々だってボランティアで年に一回はドライブ旅行などで応援している。こっちの商売まで邪魔しないでくれ」

これらの意見に対し、私たちはひたすら丁重に頭を下げ、丁寧に説明を繰り返し、お願いをし続けた。

「障害者もあたりまえに仕事につきたいのです。できることなら皆さんの援助に頼らず仕事をし、自分で給料を得て、生活したいのです。税金で養われるのではなく、納税者の立場に立ちたいのです」

私たちは一歩も譲らず、自立をめざすアビリティーズの哲学をもとに語り続けた。書店組合との団体交渉だけでなく、各書店を訪ねてお願いしてまわった。個別訪問でも相当なことを言われたが、そのうちビールを出してくれるような人も出てきた。しかし、個人的には多少変わっても、団体交渉では書店組合、泉市商工会は強硬な姿勢をとり続けた。

ついにオープン

スクラム店内(1983年)

スクラム店内(1983年)

1983(昭和58)年4月29日。ブックセンター「スクラム」の開店当日は、朝からいつ降り出すかわからないような天気だった。ところが十時の開店前に2、3百人もの人たちが列をなして待っていてくださった。そして扉が開くと同時にたくさんの人が押しあいへし合いして入ってきて、店内はたちまちいっぱいになっていた。

 書店組合の反対で長い間着工できずにいた事情をよくご存知の方も多く、みなさんが開店を祝ってくださった。たくさんの方が「開店おめでとう」と言ってくださった。嬉しかった。子供たちも何のためらいもなく商品を手に取り、レジや売場の車いすの障害のある店員たちと違和感なくやりとりしている。そんな光景が繰り広げられた。

「スクラム」という店名は、プロジェクトチームの一員としてずっと苦労を共にしてくれたジャスコ社員の古沢準一君の提案であった。障害のある人もない人も共にスクラムを組んで働こう、という想いを込めたすばらしい名前だった。彼は考えぬいた揚句、仙台から私に電話をくれ、

 「すごくピッタリの店名を思いつきました」

とはずんだ声で伝えてきた。

現イオンの障害者雇用特例子会社として設立したアビリティーズジャスコ株式会社の一号店に入社した障害者の人たちは、今では、取締役、店長など幹部社員として活躍している。定年まで勤めて既にリタイアした社員も多い。開業して37年も経過しているのだから当然なのだが。彼らはアビリティーズの精神を心底に帯している。

(本記事の全文はコラムに掲載しています。)